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Siam ANIMA「Japan Spotlight: Friction」レポート 前編

  • nana kawabata
  • 2月18日
  • 読了時間: 7分

更新日:2月19日

映画祭のデザインがあしらわれた看板
映画祭のデザインがあしらわれた看板



Siam ANIMA「Japan Spotlight: Friction」開催概要



はじめに


 本記事は、2025年9月にタイで開催されたアニメーション映画祭「Siam ANIMA」において、MOVOPがキュレーションを担当した上映プログラムに関するレポートである。

 SiamANIMA(サイアムアニマ)とは、在タイ・フランス大使館主催の「Beyond Animation Festival」を母体に発展した、タイ初の国際アニメーション映画祭である。Klower°およびGraphy Animationを中心に、複数の文化・教育機関と連携して開催されている。アーティスト主導の運営体制のもと、アニメーションを一つの表現手段として捉えつつ、東南アジアを中心とした国際的なネットワークとコミュニティ形成を目指している。
 既存の映画祭が持つ閉鎖性への懐疑と、アニメーションという映像メディアの表現可能性をあらためて問い直す姿勢のもとに発足したMOVOPは、本映画祭の理念に深く共鳴し、上映プログラムのキュレーションを担当するに至った。

 本記事では、日本にルーツを持つ私たちが、国境を越えたタイという場において、どのような視点で上映プログラムを構成すべきかを模索しながら、本映画祭で実施したプログラムの内容と、実際に現地でそれを鑑賞した体験についてレポートしていく。
 前編では、キュレーションを担当するに至った経緯とその方向性について触れ、中編では、実際のプログラム編成および各作品の選定理由を取り上げる。後編では、現地でプログラムを鑑賞して得られた所感について記していく予定である。






プログラムが上映されたタイ国立フィルムアーカイブ
プログラムが上映されたタイ国立フィルムアーカイブ





キュレーションの背景

 まず、私たちが上映プログラムのキュレーションコンセプトを検討するにあたって直面したのは、「日本のアニメーション」という表現が国際的に抱えているイメージの問題であった。現在の日本のアニメーション観の形成には、1960年代の日本のアニメーション動向が深く関わっている。当時、「アニメーション三人の会」による個人制作・非商業的立場の潮流と、「虫プロダクション」による集団制作・商業的立場の潮流が同時期に発生したことにより、「非商業/商業」および「芸術/非芸術」という対立構造が形成された。その後、日本のテレビアニメーション、いわゆる「アニメ(Anime)」の興隆によって、日本は「アニメ大国」として世界的に知られるようになる。そして現在の日本のアニメーションは、過去に比べて多様さを増してきてはいるものの、依然としてこのような歴史的な流れの影響を強く反映した、物語や視覚に依存する表現として位置づけられる傾向にある。
 以上の背景を踏まえ、今回、日本国外で日本のアニメーション作家に焦点を当てた上映を行うにあたり、私たちはまず、これまで形成されてきた「日本のアニメーション」という枠組みを拡張するようなプログラムを構想したいと考えた。
 
 一方で、日本に限った話ではなく、アニメーションは長らく「身体性を欠いた表現」であるとみなされてきた。それは、アニメーションが描き出す身体が、私たちの生きる世界の物理的・生理的な法則に必ずしも従わないかたちで出現するためである。たとえば、カートゥーンアニメーションに登場するキャラクターを想像すれば、彼らの身体は激しく伸び縮みし、ぺしゃんこになっても死ぬことなく、再び元気に走り回る。
 こうしたアニメーションにおける「身体性の欠如」という問題を、日本の「アニメ」は、虚構を虚構として受容する姿勢によって乗り越えてきたと言える。大塚英志が述べた「仮構しか描けない、と自覚することをもって、初めて描き得る『現実』がある[1]」という指摘は、現在においてもなお説得力を持ち、日本の美術表現に一つの潮流をもたらしている。このような意味において、前述した物語・ビジュアル消費に依拠する日本のアニメーションは、「虚構という現実」を表現する手段として、一定の強度を獲得してきたことは間違いないだろう。
 しかし同時に、その強度は、アニメーションが本来内包していた「身体性」を忘却させてきた側面をも孕んでいる。アニメーションの制作行為は、本来、作家の身体的な反復や痕跡の集積によって成立するものであり、また、その上映や鑑賞の場においても、鑑賞者の身体は不可避的に関与している。にもかかわらず、物語や視覚への没入が重視される中で、こうした身体の存在はしばしば背景へと退けられてきたと言えるだろう。
 
 私たちは、日本のアニメーションを取り巻くこのような状況に着目し、幾度となく議論を重ね、「部屋と身体の摩擦から生まれる痕跡」をコンセプトに据えて、上映プログラムのキュレーションを行うこととなった。

キュレーションコンセプト

 この「部屋と身体の摩擦から生まれる痕跡」というコンセプトは、アニメーションが本来持っていた「身体性」をあらためて捉え直そうとする姿勢から生まれたものである。日本アニメーションの国際的なイメージとして定着している「物語・ビジュアル消費的なアニメーション」ではなく、物理的な現実とのつながりを保ったアニメーションに目を向けることを目的としている。
 
 ここでいう身体性には、大きく分けて二つの意味を持たせている。一つ目は「作家」の身体性である。アニメーションは、作家自身の身体ではなく、作家が生み出した身体へと鑑賞者の注目を向けさせることが多い。アニメーションにおいて、作家の身体は、意識されるべきでないものとして、不可視の前提のように扱われてきたとも言えるのかもしれない。しかし一方で、アニメーションの創出において、作家の身体の揺動が不可欠であることもまた確かである。
 二つ目は「鑑賞者」の身体性である。アニメーションを含む映像メディアの鑑賞には受動性が伴う。なかでも映画館という映像視聴に特化した環境においてはその傾向がより顕著であり、没入を促すための設備や空間が、鑑賞者の身体を受動的な状態へと導く。しかし、かつての映画鑑賞においては、鑑賞者の身体の介入が不可欠であったという事実を忘れてはならない。トーマス・エジソンらによって発明されたキネトスコープでは、観客が装置を覗き込むという身体的行為そのものが鑑賞体験の一部を成していたはずだ。
 
 私たちは、アニメーションにおいて忘れ去られてきた二種の身体性を浮かび上がらせるために、「部屋」という概念を導入した。ここでいう「部屋」とは、作家が身を置く物理的な制作空間であると同時に、表現の枠組みや制度的構造をも含んだ概念である。そのような部屋=枠組みに身体が衝突し、越境しようとしたり、あるいは制限があるからこそ生まれた余白を見出したとき、身体は自ずと動き、その軌跡がアニメーションとして表出してくる。本プログラムは、そうした作家の身体と空間のあいだに生じる「摩擦」そのものを主題としている。上映される作品群には、物理的あるいは制度的な制限の中で「動かざるを得なかった」作家の身体の軌跡、あるいはその摩擦の記録が内包されている。
 
 そして何よりも「部屋」という言葉は、「映画館」という鑑賞の場そのものを包摂する概念でもある。今日の映画館において鑑賞者は、椅子に身体を拘束され、光と音を遮断された環境のなかで、自身よりも大きなスクリーンに映し出されるイメージへと没入することを求められる。そのような受動的な空間にありながら、スクリーンという「窓」の向こうから立ち上がる作家の身体の痕跡は、鑑賞者の身体に違和感や緊張、身じろぎといった反応を呼び起こす可能性があるのではないだろうか。
 
 本プログラムでは、そうした作家と鑑賞者の身体がふたたび意識化される瞬間に注目する。「部屋と身体の摩擦から生まれる痕跡」というコンセプトのもと、虚構の物語・視覚表現として消費されがちな日本アニメーションのイメージを相対化し、アニメーションが提示し得る作家と鑑賞者の身体性について、新たな展開を示すことを目指した。
おわりに
 前編では、キュレーションを担当するに至った経緯と、その背景にある問題意識、そしてプログラム全体の方向性について述べてきた。次回の中編では、実際のプログラム編成および各作品の選定理由について、より具体的に取り上げていく。


 
執筆:川畑那奈、MARU AKARI(MOVOP)

[1] ⼤塚英志著、2003年、「キャラクター⼩説の作り⽅」、星海社、p.304


 
 
 

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