Siam ANIMA「Japan Spotlight: Friction」レポート 後編
- movopanimation
- 3月11日
- 読了時間: 10分
はじめに
本記事は、2025年9月にタイで開催されたアニメーション映画祭「Siam ANIMA」において、MOVOPがキュレーションを担当した上映プログラムについてのレポート(後編)である。前編では、キュレーションの背景と方向性について触れ、中編では、プログラムに組み込まれた各作品の概要とその選定理由について記した。最後となる後編では、実際に現地でプログラムを鑑賞した所感を中心に記していきたい。
Siam ANIMA「Japan Spotlight: Friction」開催概要


現地で鑑賞してみて
実際に現地で本プログラムを鑑賞することができたMOVOPメンバーは、本レポートを執筆した川畑、MARUに加え、中澤、高橋の計四名である。それでは、ここからは映画祭の現地において本プログラムを実際に鑑賞して得られた所感について、とりわけ作品同士の関連性に注目しながら記していきたい。
率直な評価を述べるなら、「部屋と身体の摩擦から生まれる痕跡」というコンセプトのもと、「摩擦(Friction)」と題された本プログラムは、結果として「作家」と「鑑賞者」の身体、そしてそれを取り巻く概念としての「部屋」の関係性をあらためて考えさせる内容として、十分な説得力を備えていたと考える。しかし一方で、その読みは鑑賞者の文化的背景や上映環境に大きく左右されるものであり、国際的な場での発表となった本プログラムにおいては、慎重に検討されるべき余地も残されている。今回の映画祭訪問は短期間だったこともあり、タイの作家や鑑賞者との意見交換を十分に行うことができたとは言い難い。以降の所感は、そのような検討余地が残されていることを前提としつつ、今後の上映や活動に向けたひとつの手がかりとして記していきたい。
まず、冒頭に上映された石田氏の作品によって、鑑賞者は、本プログラムが扱おうとしている「部屋」という制度や境界線の問題を意識することとなった。窓から差し込む光が部屋の内部へと干渉していく様相は、そのまま映画館の構造へと置き換えて考えることができるだろう。スクリーンという「窓」を通して、映画館というブラックボックスの内部には、無限のイメージが渦巻いていく。そしてそのブラックボックスは、鑑賞者の身体そのものとして捉えることも可能である。この制限された小さな「部屋」の中で生じる「摩擦」を、鑑賞者は否応なく意識させられるのである。
部屋という制度への意識は、プログラム全体を通じて鑑賞者の内に引きずられながらも、最後に上映された岡村氏の作品によって、一定の帰結へと導かれていく。岡村氏の作品は、ムーヴィング・パノラマに類する映画の原点的な形式を想起させながらも、そこに映し出されるのは、白く、居場所の定まらない風景である。鑑賞者は、移動する喜びや動く喜びではなく、むしろ、動かないことから生じる焦燥感に近い感覚を覚えることになるのだ。
石田氏によって提示された、部屋という制度の内部において「どこまでも行ける」かのような無限性と、岡村氏によって提示された、「どこへも行けない」かのような感覚という相反する経験を、鑑賞者はそのまま「摩擦」として引き受け、あらためて考えさせられることになるのではないだろうか。

そして、高橋氏と高嶺氏の作品は、「私」という個人の部屋における営みを、個人という枠組みを超えた「あらゆる私」の部屋へと、異なる方法で接続していた。
高橋氏の作品は、一人暮らしをする日本人の一般的な部屋を舞台に制作されており、それは多くの日本人にとって、自分自身の経験に引き寄せて共感可能な場として受け取られるだろう。つまり、あの部屋は、多くの人にとっての「私」という個人の部屋として置き換え可能な場として機能している。「私」の部屋で巻き起こる奇妙な祝祭に居合わせた鑑賞者は、自らの生活の内部に侵入してきた何者かに対して、ムズムズするような感覚を覚えるのではないだろうか。
ただし、残念なのは、タイの人々がこの部屋に対してどのような感覚を抱いたのかについて、十分に聞き取ることができなかった点である。いわゆる「日本的な部屋」に対する日本人の感覚とは異なる受け取り方や解釈がそこには存在していたはずであり、その差異は、本プログラムを国際的に展開したことによって浮かび上がる、ひとつの興味深い示唆になりえたのではないかと思われる。
高嶺氏の作品は、高橋氏の作品以上に部屋の内部で私的な生活が直接的に映し出されているにもかかわらず、そこから、より普遍的な群衆、さらにはそのまとまりとしての国家という枠組みを浮かび上がらせていた。部屋の中で巨大な頭部と格闘する男女の姿は、国家の最小単位としての生活、そして労働の原型を容易に想起させる。本作品は、アメリカという具体的な国家を題材として制作されてはいるものの、国家という一つの部屋に所属する私たちにとって、それは決して特殊な物語ではなく、ありうる労働と生活の寓意として読み取ることができるはずだ。
国家のイデオロギーを浸透させる装置としての背景を持つ映画館で本作品を上映することは、美術館で上映することからさらに、新たな意味を持つと考える。特に、タイという王国体制の国家において、アメリカの愛国歌が流れることは、単なる作品内の演出を超え、異なる国家のイデオロギーが同一の空間に重ね合わされる瞬間として、強い緊張を生み出していたのではないだろうか(タイでは、映画館で映画が上映される前に国王賛歌が流れ、その際に鑑賞者は起立することが義務付けられている)。つまり、国家の部屋という側面を持つ映画館は、スクリーンという「窓」を通じて、国家と国家が無言のうちに交差する政治的な場として立ち上がっていたのである。それは、個人の部屋という枠組みを超えた、より大きな枠組みとしての部屋同士の遭遇であり、すなわち、国家間で絶えず生じ続ける「摩擦」への意識でもある。
このように、高橋氏と高嶺氏の作品は、部屋の中で繰り広げられるごく個人的な生活を拡張し、それを他者の生活へ、さらには国家という枠組みへと接続していく回路を形成していた。

古澤氏の作品は、プログラムの中でもひときわ異様な存在感を放っていた。プログラム中で唯一の無音作品であること、そして展開を持たない映像であることが、その印象をいっそう強めている。
プログラムの中盤に本作品を配置したのは、スクリーンの中の映画の中の世界と、私たちの身体が存在する物理的な世界とのはざまに佇むような経験を、鑑賞者に与えることを意図したためである。4Kで制作された精緻な海の波の映像は、その映像美によって鑑賞者を映像内への没入を強力に誘いながらも、時折「我に返らせる」。波に飲み込まれては、再び息をするように現実へと引き戻される、まるで渚に佇むような鑑賞体験を実現していた。そして、映像の音響の欠如は、かえって、無音に戸惑う鑑賞者の「身体のうごめき」を音響効果として立ち上がらせていた。鑑賞者は映像と対峙しながらも、自身の身体を完全に忘れることができず、思わず「モゾモゾ」と動いてしまうのだ。
古澤氏の作品における体験を、石田氏と岡村氏の作品と関連づけて考えるならば、それは「どこまでも行ける」という感覚と、「どこへも行けない」という感覚のはざまに立たされる経験として機能していたと言えるのではないだろうか。
毛利氏の作品は、古澤氏の作品による静寂を破るかのような太鼓の音とともに始まる。それはまるで、鑑賞者を現実へと呼び戻す目覚めの合図のようでもある。石碑の碑文を刻み直すことで、碑文が刻まれた当時の人々とのつながりを得ようとする作者の試みは、物理的現実における身体のふるまいを通じて、過去という遠い場所へと接続しようとする行為である。「刻む」という行為は、ここでは「描く」と言い換えることもできるだろう。この描く行為を通じて、現在の物理的な制約を受けた場から遠く離れた存在へと手を伸ばすこと––––その身振りそのものが、アニメーションの制作行為が本来内包してきた根源的な意味に触れる営為でもある。
作者自身が石碑を巡る記録映像を含め、本作品は、アニメーションの制作行為そのものが持つ、物理的な時間や空間の境界を超えた接続の可能性を提示している。そこでは、過去の身体、作家の身体、そしてそれを見つめる鑑賞者の身体が、ひとつの連なりとして束ねられ、映画館という小さな部屋の内部に、時間の奥行きが静かにひらかれていくのである。
本作に対しては、作品鑑賞後のトークイベントなどで、鑑賞者から「なぜ石碑を題材にしたのか」という問いが多く寄せられた。そこには石碑という存在自体が十分に共有されていない前提の違いがあったように思う。日本では道端に曖昧に存在する石碑が、異なる文化圏では用途の見えにくい対象として浮かび上がり、そのずれが対話を生むきっかけとなっていた。
続く野々上氏の作品は、「脳の上」というタイトルの通り、「脳」を置き去りにするかのような速度で、イメージが次々と炸裂していく。映像への没入が重視される映画館という場において、鑑賞者の物理的な身体は、できるだけ意識されないことが望ましいとされてきた。そういう意味で、私たちは「脳」だけで映像を見ていると言ってもよいだろう。しかし、この「脳の場所」である映画館において、その脳さえも置き去りにされてしまったとき、私たちはいったい何によって映像を見るのだろうか。本作はそのような問いを含んでいる。
本作は、物理的な部屋としての身体を捨て去ったときに生じる、「どこまでも行ける」かのような万能感に満ちている。しかし同時に、その万能感はどこか不穏な感触を伴う。イメージの洪水は、鑑賞者に快楽と困惑を同時にもたらし、思考が追いつかないままに身体だけが反射的に反応してしまうという状態を引き起こす。その意味で本作は、「どこまでも行ける」万能感の臨界点において、「どこにも行けない」身体の現実を露呈させると同時に、映画館が「脳の場所」である以上に、「身体の場所」でもあるという、その本質に深く触れていると言えるだろう。そして、その直後に岡村氏の作品が配置されることで、この感覚はいっそう強調される結果となっていた。




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