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Siam ANIMA「Japan Spotlight: Friction」レポート 中編

  • 執筆者の写真: movopanimation
    movopanimation
  • 3月2日
  • 読了時間: 11分

はじめに

 本記事は、2025年9月にタイで開催されたアニメーション映画祭「Siam ANIMA」において、MOVOPがキュレーションを担当した上映プログラムについてのレポート(中編)である。前編では、キュレーションの背景と方向性について触れた。中編では、プログラムに組み込まれた各作品の概要と、その選定理由について記していく。

Siam ANIMA「Japan Spotlight: Friction」開催概要





キュレーションプログラムの内容

 ではさっそく、プログラムの具体的な内容について触れていきたい。まずは、以下に上映作品の概要を、実際の上映順に沿って、作家から寄せられた文章とともに記載する。




《部屋/形態》(1999)石田 尚志
実際の部屋(東大駒場寮)の壁にペンキで直接描かれたドローイングアニメーション。窓の内と外、窓と絵画の関係を軸に、一日数秒のペースで、その日その日の日記のように1年に渡り描き進められた。建造物がそのまま楽器になり、音楽になるというイメージからパイプオルガンが使用されている。




《Sendai》(2025)高橋 李空
「何かをつくる」ことだけ決めて、3日間、滞在制作をした。自分が毎日生活している土地から離れた場所に、身を委ねて撮ったアニメーション作品。





《God Bless America》(2008)高嶺 格
2001年のアメリカ同時多発テロ事件、いわゆる911事件を受け、やむにやまれる衝動で作った作品。2トンの粘土は作家のアトリエに設置され、生活する様子も同時に記録されている。絵コンテを描かず、毎日即興的に造形を行った。日本とアメリカの政治的関係に鑑み、人々と粘土の関係(master and slave)が反転できる構図となっている。





《Waves Etude》(2020-2022)古澤 龍
波は空間にも時間にも連続する。海面はそうした幾重もの波の重なりである。こうした波の特徴を次元を変換した視点から捉えてみたいと思った。動画を構成するフレームの連続体を、X,Yに加え時間Tを奥行き次元とした一つの三次元立体として捉え、任意の断面を抽出する座標変換を手法とした。この作品群は、撮影とデジタル技術を駆使して自然界に隠されたリズムを解き明かそうとした一連のプラクティスである。





《刻三碑》(2025)毛利 華子
最古の石碑群「上野三碑」を、映像によって現前させることは可能か。 千年以上前に刻まれた碑文の読み下しと、油粘土によるストップモーションアニメーション、石碑を巡った記録映像を交差させ、古代と現在の接続を試みた。 粘土は変形し、声は消え、石碑の前に立つ私はすでにいない。本作は、そうした痕跡の集積によって成る。 自己と外界の間を行き来しながら、上野三碑の輪郭をなぞるように制作された作品である。





《脳の上》(2023)野々上 聡人
脳を経由しない手の反射による絵の無軌道な動き・変化を信じよう。意識を置いてきぼりにする手の速度で紡ぐ絵のエスカレーションは旅。それは何処へ向うのか?それはどう終わるのか?それをドキドキしよう!それをワクワクしよう!NO 脳!KNOW 脳!




《白い日》(2025)岡村 あい子
飛行機は今、白く厚い空の中を飛んでいる。私はどこにいて、あなたはどこにいるのだろうか? 変わり映えしない景色を眺めることは、自身の居場所について考えることと似ている。


作品選定理由

 さて、次に「部屋と身体の摩擦から生まれる痕跡」というコンセプトのもと、プログラムを構成するにあたり、これらの上映作品をどのような視点から選定するに至ったのかについて述べていきたい。

 まず、石田尚志氏の《部屋/形態》は、作家の「描く」という行為そのものをアニメーションとして記録する作品である。映像内に作家の身体が映り込んではいないものの、実際の部屋の壁や窓に直接描かれた線は、確かにそこに存在していた作家の身体を想起させる。この「不在」による身体の強力な存在証明こそが、石田氏の作品の大きな魅力の一つと言えるだろう。
 また、本作は絵画における「フレーム」に対する言及も含まれている。絵画と映画の間で共通する「フレーム」という制度は、ときに表現上の制約としても機能しうる。しかしそれでもなお、その制約に身体が触れ、ぶつかり、応答することでこそ、表現は強力な出来事として立ち上がるのではないか。フレームから逸脱するように暴れ回った線たちは、最後に再び現れる「フレームの中のフレーム」に「バツ」を刻んで幕を閉じる。この「バツ」についてはさまざまな解釈が可能だが、作家が頻繁に用いる「渦巻き」的な筆跡との関連から考えるならば、それは硬直した世界が内側から動的に展開していく運動としての渦巻きとも読み取ることができる。タテとヨコに交差するバツは、時間性の導入や作家の身体の介入によって、静的な記号から、動きを孕んだ生命的な文様へと変容していく。バツから渦巻きへ、そして再びバツへと至る本作は、「フレーム」という制度を単純に否定するのではなく、鑑賞者にその前提を問い直す視点を与えている。

 高橋李空氏の《Sendai》は、本プログラムのために新たに制作された意欲作であり、宮城県仙台市に居住する高橋氏の友人の自宅にて、3日間という短い期間で制作された。
 高橋氏は、祭りや儀式が引き出す身体性に強い関心を寄せており、その意識をアニメーション作品にも反映させている。アニメーションは、多くの静止画によって構成されるという技法的特性から、制作に長い時間を要することがほとんどだ。無計画のまま訪れた土地で、友人の部屋と大量にあった段ボールを用い、場当たり的にアニメーションを制作するという試みは、その行為自体が作家にとって祝祭的な営為であると言っても過言ではない。
 ただし、祭りの場となった友人宅はごく一般的な一人暮らしの部屋であり、生活感はそのままに残されている。つまり、祭りにおいて重視される「非日常感」は、本作において奇妙なかたちで展開されているのだ。日常的で私的な空間に突如として立ち上がる「祭り」の様相は、鑑賞者に違和感を伴った独特の感覚をもたらす。どこにでもありそうな一人暮らしの部屋は、そこに充満する具体的な生活の気配を私たちに強く想像させる。しかし、部屋の中央に鎮座する謎の動物は、そうした想像をかき消すかのように強い存在感を放っている。部屋中に色濃く残った日常的な身体性と、ダンボール製の謎の動物を中心に発される非日常的な身体性の不調和が、鑑賞者を安定した鑑賞態度から引き離し、日常と祝祭のあいだの裂け目へと誘う。

 高嶺格氏の《God Bless America》は、9・11以降のアメリカの政治的現実を起点としつつ、作家の制作行為そのものに向き合った映像作品である。巨大な粘土の顔面彫刻を18日間かけて成形する男女の姿が記録され、そこには制作の手つきだけでなく、睡眠や性といった人間の根源的な営みも同時に映し出されていく。
 注視すべきは、つくるという行為が、国家や性別、視線、空間といったあらかじめ与えられた枠組みとせめぎ合うプロセスとして描かれている点である。粘土は形作られると同時に崩れ、垂れ、人の手によって変化し続け、その軌跡は関係性の重さや制度的な重力を反映する。限られた空間で続く制作は、儀式であり実験であり、時代と衝突しながら何かを残そうとするリアルな身体の記録でもある。
 さらに、巨大な彫刻と人間の身体とのあいだに生じる距離感や緊張は、映画館という閉じられた空間において鑑賞者に強く共有される。そして、ややコミカルにも聞こえる歌声の後に突如訪れる無音に近い時間の持続は、「祝福あれ」という歌詞の背後に潜む不穏な現実を、否応なく意識させる。本作は、政治的現実を主題としながらも、それを直接的に語るのではなく、身体の感覚を通じて観る者に刻み込む映像として立ち上がっている。

 古澤龍氏の《Waves Etude》は、無数に重なる映像フレームを「時間の塊」として捉え、その断面を映像として提示する。
 過ぎ去るはずの時間を撮影によって固定し、それを三次元的に捉え直すことで、自然や時間に対する新たな視点を立ち上げる。ゆるやかな周期で変化し続ける自然の営みには、常にわずかなズレが潜んでおり、それは時間を断面として捉えたときに初めて可視化される。そうして現れる「時間のテクスチャ」は、私たちの物理的な身体によって硬直した時間や空間に対する知覚を撹乱し、波のように身体を侵食していく。時間の塊の内部でフレームが動き出し、無数の時間が同時に立ち現れるその瞬間、私たちは時間と空間に対する身体感覚を根本から問い直すことになる。
 鑑賞者は、三次元的に捉え直された映像という「時間の塊」の内部を、フレームという仮想的に設定された身体に自身を同期させながら体験する。その超人間的とも言える経験は、同時に、私たちが逃れがたい制度としての物理的身体を露わにするものでもある。とりわけ、映画館という環境においてはそれが強調され、座席に固定され、空間の中に留め置かれた身体の存在が否応なく意識されることになる。本作は、映像を通して鑑賞者の知覚を拡張しながらも、その体験が成立する条件としての、逃れがたい身体と空間の制度の存在を、鑑賞者の内部に静かに刻み込む作品となっている。

 毛利華子氏の《刻三碑》は、群馬県の文化財である上野三碑(こうづけさんぴ)を扱った作品である。伝承の語りに重ねて、石碑を想起させる粘土に模様を刻むクレイアニメーションと、作者自身が三碑を巡る記録映像が交互に映し出される。
 1000年前の言葉を語りながら無数の溝を刻む行為は、石碑が生まれる過程を想起させ、当時の人間と作者の身体を結びつけている。石碑の建立には、後世に長く語り継ぐべき文化や歴史が関わっているが、現代に残された石碑と向き合う私たちにとって、それを当時の意味のまま受け取ることは容易ではない。だからといって、石碑そのものの姿形が大きく変容しているわけではなく、意味の隔たりはむしろ、受け手である私たちの側に生じていると言えるだろう。時間の経過によって断絶された文脈や感覚を前に、私たちは石碑とどのように向き合うことができるのだろうか。作者が身体を介して刻む行為は、その隔たりを埋めるのではなく、むしろ現在の身体から過去へと触れ直すための回路を開いている。そのとき石碑は、固定された意味を伝える記号ではなく、時間を越えて身体的に応答を促す存在として、あらためて立ち上がってくるのではないか。一人称視点で記録された実写映像は、現代人が石碑を訪ねる行為を息遣いとともに生々しく伝える。鑑賞者は作者の視点を共有し、生成と鑑賞という異なる時間を往復するなかで、上野三碑を「刻む」体験をするのだ。

 野々上聡人氏の《脳の上》は、脳を経由しない身体の反射によって描くことを試みた作品である。作家の思考をできるだけ介在させず、意識さえも置き去りにするような状態で制作が行われている。
 自動筆記的な制作方法をとった本作は、鑑賞者を急速なイメージの奔流へと巻き込み、思考が追いつく前に身体的な反応を引き起こす。画面上で次々と立ち上がる形象は、意味や物語として把握されることを拒み、見る者の知覚を直接的に刺激する。その結果、鑑賞者は「理解する」ことよりも先に「反応してしまう」状態へと導かれ、映像と対峙する自身の身体の存在を否応なく意識させられるのである。脳を迂回して生み出されたイメージは、鑑賞者の側でもまた、脳を介さずに受け取られることで、本作は作家と鑑賞者の身体が反射的に接続される場として立ち上がっていく。その体験は、映画館という場においていっそう強調される。鑑賞者は座席に身体を預けたまま、制御不能なイメージの速度にさらされることとなる。
 こうして本作は、知覚と反応のあいだに生じるわずかな時間差を露わにし、映像鑑賞という行為そのものが、いかに身体的な出来事であるかを鋭く突きつけてくる。思考の外側で起こる身体の反射が、鑑賞体験の中心へと引き上げられるのである。

 岡村あい子氏の《白い日》は、アニメーションによって絵画に時間軸を与えるという手法を効果的に用いることで、「いくら待っても大した出来事が起こらない状態」を意図的につくり出している。
 無数に重なり合う線は、出来事ではなく、ただ流れていく時間と空間そのものを描き出し、鑑賞者に謎めいた焦燥感や空虚さをもたらす。それは、私たちが無意識のうちに受容してきた、映像という時間芸術が内包するイリュージョン的な側面を、あらためて浮かび上がらせているとも言えるだろう。映画館という場は、「ただ時間が流れていく」ことが許されない空間でもある。しかし現実とはむしろ、無為な時間の連続とも言えるだろう。いわゆる映画的な時間軸は、私たちの日常には本来存在し得ない。映画館という場に日常的な時間の流れを持ち込むことで、鑑賞者はこれまで見過ごしてきた「冗長な日常」と、違和感を伴ったかたちで対峙することになる。それは、映画館が導き出す「映画的な身体」を通じて経験される特異な日常であり、見る者に自身の時間感覚や存在のあり方をあらためて見つめ直させる。
 本作で描かれる飛行機の窓は映画館のスクリーンに、そして飛行機の座席は映画館の座席に、それぞれ重ね合わせて捉えることができる。映画館では許されない白い画面は、物語や出来事の進行を期待する鑑賞態度を裏切り、強度の日常的な時間そのものと向き合うことを強いるのである。

 本プログラムにて上映される作品は、以上の理由から選定された。それぞれの作品は、作家の身体、鑑賞者の身体、そしてそれらを媒介する「部屋」や上映空間との摩擦を異なるかたちで顕在化させている。単なる映像表現の一種としてのアニメーションではなく、身体的な出来事としてアニメーションを捉え直すための視点を提示する点において、これらの作品群は本プログラムのコンセプトを多層的に体現するものとして機能しうると考えた。

おわりに

 中編では、キュレーションを担当するに至った経緯と、その背景にある問題意識、そしてプログラム全体の方向性について述べてきた。次回の後編では、実際にプログラムを鑑賞した所感を中心に取り上げていく。

執筆:川畑那奈、MARU AKARI(MOVOP)

 
 
 

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